美展の歴史

大正から昭和初期

美展草創期

第一回美展図録/出典:京都丸紅美展の歩み

第一回美展図録/出典:京都丸紅美展の歩み

大正から昭和初期の経済・産業界は激動の時代で、染織業界も不況にあえいでいました。打開するため、新しい染料と技術を導入し、意匠も斬新さを求め、普遍的な価値を持つ商品の開発を目指す動きが始まりました。
丸紅商店京都支店は堂本印象、竹内栖鳳、伊東深水など、多くの日本画家や洋画家に新しいきものの意匠考案を依頼して、年二回の発表会「草の葉会」(のちに「あかね会」に組織改編される)を開催していましたが、発表された原画をもとに製作した作品展を東京の白木屋で開いたところ、大好評を博しました。そこで、きものを芸術品の域にまで高めようという機運が高まり、新しい「きもの美」を追及する「美展」の創設に全社を挙げて邁進し、昭和2年には第1回「美展」が「染織逸品会」と銘打って開催されました。
昭和4年

衣裳コレクションの始まり

第4回美展

第4回美展

昭和4年に能装束を購入したことを契機に、丸紅商店京都支店では時代衣裳の蒐集を始めました。当初「名品会」と称された活動は、古代衣装を蒐集する一方で、これを研究、染織品を現代に訳して創作するというのが主なものでした。
「店の意匠の進歩発達と、後世に伝えて日本の衣装、染織品の技術と意匠を保存し、染色と機織機構の研究の必要ありとして、慎重に能衣装、小袖、裂帖、敷物その他、各種の物を蒐集したのでした。」と記されております。
昭和2年〜第二次世界大戦

美展苦難の時期 -休会-

第一回染織文化展覧会図録

第一回染織文化展覧会図録

戦時中

戦時中

日本が第二次世界大戦の戦時色に覆われていく中、織物産地は大きな打撃を受けました。その中でも丸紅商店京都支店は昭和13年に新社屋を完成させました。
第二次世界大戦に突き進む中、「奢侈品等製造販売制限規則」が発令され、「美展」も国策に沿うよう、「染織文化展覧会」と改称し、豪華な逸品物を排した創作で続けられていましたが、昭和18年、ついに休会を余儀なくされました。
戦後〜

美展再興

美展第41回(1950年) 尾嶋正三

美展第41回(1950年) 尾嶋正三

昭和24年、絹、人絹の統制が解除され8月に美展は「染織文化展覧会」として6年ぶりに復活致しました。当時は和装展が皆無の時であっただけに、美展の開催は「希望に胸膨らむ思い出あった」と会員は記しています。
昭和28年朝鮮戦争も終結すると、日本経済回復されつつあった時代に答え、美展も盛り上がりを見せ、さらに充実した商品を発表していきました。
昭和34年〜

高度成長期の中で

昭和34年の皇太子御成婚をきっかけに礼装用きものブームがおこり、「美展」作品は逸品物としてデパートや特選呉服市場の関心を集めました。
所得が倍増するにつれて、振袖、留袖を中心に高級フォーマル品の人気が高まりましたが、昭和48年のオイルショックで呉服消費も一気に冷え込み、量から質へと変化し付加価値の高い本物志向へと移行していきました。
昭和54年

第百回美展盛大に開催

美展百回記念展示風景

美展百回記念展示風景

美展百回記念展示風景

美展百回記念展示風景

昭和54年、第百回「美展」は、逸品会であり続けることを伝統とした歴史をふまえて、テーマを「伝統の美」とし、丸紅の威信をかけて開催されました。
本物志向の消費者動向をいち早く捉えると共に、染織技術の向上と優れた染織作家の育成を新たに決意しました。
昭和58年〜

美展一般公開

京都市美術館での美展

京都市美術館での美展

昭和58年、美展は初めて京都市美術館にて一般公開。62年には東京美展が一般消費者を対象に開催されました。
その結果、逸品物における美展作品の真価が発揮され、一般消費者の方々にも広い支持を得るようになりました。
平成元年〜

弛まぬ歩み

美展第124回(1991年) 松井佚鴦

美展第124回(1991年) 松井佚鴦

「逸品」を生み出す「美展」の伝統は、次の新しい時代へも受け継がれています。

出典・写真/昭和の歩み美展
出典・文章/昭和の歩み美展・美典百回史